空手と六道輪廻。

今日もどんどん気ままに思うままに書くのである。

そのうち、誰か一人くらいは理解していただけると思って書くのである。

さっそく始めるネ。

ワタシの空手、咲心館の稽古は、

①基本稽古

②移動稽古

③型稽古

④ミット稽古

⑤約束組手

⑥自由組手

と、①~⑥という流れでやっているのである。

①~③は単独稽古、④~⑥は対人稽古である。

①が一番易しくて、段々と難しくなっていくのである。

③より、④や⑤の方が簡単なんじゃないかと思われる人もいるかも知れないが、

咲心館の空手は、誰がなんと言おうと、順番はこうなんである。

単独でやる稽古よりも対人でやる稽古の方が難しいに決まっているんである。

ここで何でなのかを説明しても、ワタシと稽古をしないことには

わかるはずがないので省略するのである。もちろんわからなくてもいいのである。

このブログでは、ワタシの空手を知らない人にも役に立ちたいと思うのである。

だから空手以外にも応用が出来るようにと思って書くのである。

でも、役に立たず、腹を立てるブログかも知れないのである。ごめんね。である。

それでも構わず書いていくのである。

で、話を戻すと、

①から⑥までの6種類の稽古をしてくと、

大体の人が、1種類の稽古ごとに、力の入れ方や出し方や動き方など・・・

まるで別人かー。ってな感じになってしまうのである。

①の突きや蹴りや立ち方が⑥では全然ちがう突きや蹴りや立ちになっちゃうのである。

①の稽古も⑥の稽古も同じ人間がやっているのに、まるで赤の他人のような姿である。

中には、6種類の稽古の全部が極端にちがう人になっちゃう人もいるのである。

1人の人間の中に、6人の人間がいるということになっちゃうわけである。

武道では「自己確立」とか「自己実現」というのが目的の一つなんであるが、

1人で6人になるのでは、いったいどれが自分なのか?のような状態では、

この目的を果たすことは不可能ということになってしまうんである。

で、①~⑥まで、同じ感覚や動きを出来るように稽古をするわけであるが、

そう簡単には行かないのが普通で、目的を果たすにはスゴく時間がかかるのである。

それで①~⑥を延々と繰り返し稽古をするのである。

①で出来る感覚などが、③でうまく出来ない人は③を重点的にやったり、

また⑥で出来ない人は⑥を繰り返し、あるいは⑤まで下げて稽古するわけである。

これを先日書いた、

六道輪廻と言うのである。

ハイ、出ましたー、来ましたー、

またまた暴走ブログの真骨頂の登場☆である。

空手の稽古と六道輪廻・・・お釈迦さまと強引に結びつけちゃうのである。

さすがである。

自分で言うなよ。

空手の稽古を六道輪廻に合わせて、

①基本稽古・・・地獄界

②移動稽古・・・餓鬼界

③型稽古 ・・・畜生界

④ミット稽古… 修羅界

⑤約束組手・・・人間界

⑥自由組手・・・天上界

こんなふうに組み合わせて考えるのである。

もちろん基本稽古が地獄界という意味とかではないのである。

あくまで、レベル的な捉え方であることを強調しておくのである。

で、空手の稽古では①~⑥の間をグルグルと廻り、

人生では、地獄界から天上界の間をグルグルと廻っているのであるが、

「自己確立」や「自己実現」が出来ない人がほとんどなわけである。

「自己確立」とか「自己実現」というのは、

何かしらの自分になるとか、何かを手に入れた自分になるとか、

そういうことではないのである。

「今の自分をそのまんま知る。」ということなんである。

①から⑥の稽古をやっている自分、①と②の自分の違い、②と④の自分の違い・・・

これらに気づくのである。

そんで、「それに気づいた自分ってだぁ~れ?」を知ることである。

いつも四六時中、自分を観ている自分に気づき、そいつを知ることなんである。

六道の方で言えば、欲深な餓鬼界の自分とか、怒り狂ってる修羅界の自分とか・・・

自分が今、どの界のどんな自分なのかに気づく自分に気づき、その自分を知る。

その自分が7番目の声聞界である。それが「自己確立」とか「自己実現」である。

で、声聞界の自分を知って、①~⑥の稽古を繰り返すのが武の道なんである。

声聞界の自分を知って、六道の中を歩むのが人生なんである。

そんで①~⑥の稽古と六道輪廻の世界によって、

声聞界の自分という、六道の外にいる、四聖の自分が進化成長していくんである。

これが咲心館の空手なんである。

バカみたいな話だけれどマジなんである。

と言うても、バカなワタシがマジなだけであるから

マジでバカなんである。

ハイ、わかった人は、手~上げて!

上げてくれても、見えんがな。

咲 心太郎

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