またあちこちで、土石流やら水害やらと・・・
天災に見舞われてるのである。
その度にワタシは、
その自然のパワーにただただ脱帽し、恐れ崇めるのである。
今では、年に何度もこういうニュースを観るのが当たり前になってきているが、
これが当たり前になるともっと酷くなるそうである。
「日月神示」やその他の書にそう予言されているのである。
で、予言されてる通りになって来てるのである。
人間ごときがどんなに頑張ったって自然を相手には勝てっこねーのである。
いつだって、自然の力によって生かされてることを忘れちゃならんのである。
歪められた自然は、その自然のバランスを戻すためにあらゆる現象を生むのである。
自然も生きている、生き物なんである。
それが人間にとって不都合であっても、
人間も自然のごく一部であるから、自然はおかまいなしに
自然自身のバランスを取るために粛々と活動し続けるのである。
まだまだ人間はこの自然の活動によって殺されるとのことである。
現代では、昔のワタシがそーだったように
「自分が一番偉い。」と思ってる・・・
自我ばかりが強くなって、
「神も仏もあるもんか。」
ってな人間が多くなったのである。
で、ワタシは断言するのである。
神も仏もいないけど
神と仏の力は働く。
ワタシの人生においては、
紛れの無い事実だからである。
これまでには、
理屈では説明がつかないことがたくさん起こったし、
「合気」なんてのもこの力の一部なんである。
で、昔の武道家たちは、
道場に神棚を祀り、神を崇めて稽古に励んだのであるが、
スポーツ化された今では、神を祀る道場は少ないようである。
また、昔の人たちは、
神域というのがわかったそうで、
山の中や山際などに神社を建てて、それを示したり、
村には豊作や天災に遭わないことを願う神社、海の近くには漁の安全など、
常に神社で神を祀り、神に祈りと感謝を捧げて生きていたのである。
それが今では、
パワースポットとか言って、
「宝くじが当たりますように。」とか、
「結婚相手が見つかりますように。」とか、
「仕事が上手く行きますように。」とか、
とにかく、まぁ、
自分にとって都合のイイ事だけをお願いしに行く人が多いのである。
神や仏は人間の都合なんかどーでもいいのである。
神や仏が人間の言うことを聞いてくれるんじゃなくて、
人間が神や仏の言うことに耳を傾けなればいけないのである。
耳を澄ませば、ちゃんと聞こえるのである。
何故なら、誰もが皆、神や仏と繋がっているし、
自分の中に神や仏が宿っているからである。
いつの間にやら出来た、自我に埋もれて隠れちゃってるだけである。
で、
今一度、
神や仏というものを信じてみませんか。
信心とは、
別に高尚な教えを学ぶことでもないし、
ましてや高尚な人間になることでもないし、
悪たれだろーが何だろーが、
「神や仏の力は働く。」
ただ、心からそう思えばいいだけである。
これが「心のお洗濯」となり「岩度開き」へと繋がるのである。
で、いつの日か、
「あらいやん、こんなところに居りましたの。」
と、ビックリしていただきたいもんである。
武道家たるものは、この信心があってこそである。
それが、大難を小難に変え、
天災を押さえる力になって行くのである。
また、
その武の技も、神の力に通じた神技となって行くのである。
そして、それが、
世のため、人のため、自分のため・・・
そのための稽古である。
って、
ヘンな宗教に入信したらあきまへんでー。
言ってるオマエが怪しいだろ。
たしかに。
咲 心太郎
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