「自由への扉」と「見えない扉」。

またハチがお店に入って来たのである。

前回のスズメバチとは違うけど、まぁまぁデカいハチである。

でも、スズメバチじゃなけりゃ~どーってことねーし、放っておくのである。

前回のスズメバチの時は、咲心館奥儀「活虫剣☆」で、お外へ逃がしたのであるが、

ハチごときに、そうそう奥儀を使うわけにはいかねーのである。

ワタシの奥儀は、対人間用である。

じゃ、なんで、この前はスズメバチに使ったんだよ。

スズメバチに使ったのは、ちょっとビビって護身のためである。

そんなワタシのお店は2つの側面が全面ガラス張りになっていて、

ガラス張りの正面の扉を開けてあるので、そこからハチなどが侵入してくるのである。

で、入ったが最後、外へ出ようとガラスにぶつかりまくるのである。

アホちゃう?

アホではなくて、ガラスが見えない、わからない生き物みたいである。

過去には、スズメやツバメも入ってきて、ガラスにぶつかってるのである。

やっぱ、アホちゃう?

この子たち、入り口はわかるのに出口がわからないのである。

スズメやツバメは、外へ出してあげようとすると、襲われると思うのか、

パ二くって、ガラスに勢いよくぶつかって失神しちゃったりするんである。

ホントにアホちゃう?

無限に広い外の空間から、ワタシのお店という狭い空間へ入り込んでしまい、

そして出口がわからずに、ガラスにぶつかって苦しんでいるのである。

人間のワタシから見たら、ガラス面と扉が開いた出口の違いは明らかで、

何の問題もなく、ガラスにぶつかることもなく、出たり入ったり出来るのであるが、

ガラスが見えない、わからない、鳥や虫たちは、なんとか外へ出ようともがき、

ガラスにぶつかりながら、出口の開いた扉へと・・・外界への扉へと・・・

また自由になれるという、その外の世界に出れるかどうかは運次第である。

たまたま開いた扉へと向かえば外へ出て、また自由に飛ぶことが出来るが、

もしも外に出ることが出来なければ、苦しみながら、死ぬことになるのである。

外へ出ようと試みない者も、限られた世界のお店の中で、死ぬことになるのである。

と、外へ出ない限りは、本来の死に場所ではなくなってしまうのである。

以前のワタシもこの鳥や虫たちと同じだったのである。

気が付けば、この世界のこの場所に咲心太郎として存在し、

自由を探し求めて、もがきあがきあちこちぶつかりながら生きていたのである。

その「自由への扉」はいつだって開いているのに、見えなかったのである。

今日のこの話のハチがワタシで、お店が自我意識の世界であり、

外の世界が、お釈迦さまやキリストやその他の偉人聖人たちが説く意識の世界である。

お釈迦さまの教えでは、

お店の中が「六道」の世界であり、外が「四聖」の世界である。

「六道」の世界は狭く限りがあり、「四聖」の世界は無限に広いのである。

この繋がった二つの世界の境には、「見えない扉」があるのである。

その扉がわかれば、出入りは自由になるのである。

そして、この「六道」と「四聖」を行き来しながら、

「四聖」の世界を学び、「六道」の世界を経験することによって、

「四聖」の世界を少しずつ理解出来るようになるのである。

で、その理解した「四聖」の世界の一部を、空手で「六道」の世界に顕すのである。

この繰り返しによって、「四聖」の無限の世界の理解を深めていくのである。

こうして、ブログを書いている間に、

どーやらラッキーなハチだったようで、外へ出られたようである。良かったね。

このハチの「自由への扉」、「見えない扉」は、たまたまラッキーが起こったけれど、

人間の「自由への扉」、「見えない扉」には、たまたまラッキーは起こらないのである。

「求めよ、さらば与えられん。」byキリスト

これしかねーのである。

で、いらねーヤツは、求めなければいいだけである。

でも、ここまで読んだ人は、求めてる人なんである。

求めてることに気づいてない・・・

それが「見えない扉」なんである。

咲 心太郎

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