「人生とは学ぶことである。」

神戸で大学生の子が、ボーガンで襲撃して数人が死傷したそーである。

あのさ、ボーガンで、人間を撃つ!ってさ、

完全なる善から生まれた人間が、こんな極悪非道なことをやるのはなんでだろーか。

やったらどーなるかも思考が出来るであろー、大学生なのに!である。

ま、ボーガンなんて使う必要のない世の中で、手に入ること自体が問題なんだけどね。

高馬力のスポーツカーなどは、最高速度が250km以上出るような車もたくさんあるが、

「リミッター」という装置によって、180kmくらいで制御がかかり、

それ以上は加速しないようになっているのである。

で、「走り屋」は、この「リミッター」を外して180km以上の世界、

車の性能をフルに発揮した世界を楽しむのである。

そして、「リミッター」を外した者だけが見れる世界を見るのである。

実はこれ、人間の脳みそにも当てはまって、

昨日のブログに書いた、「理性」が「リミッター」に当たるわけである。

この「リミッター」があるから、極悪非道なことをやらずに済むわけなんだけれど、

ときどき、「リミッター」の装置が壊れてしまうと、暴走することになるのである。

で、「リミッター」である「理性」をちゃんとしておかないといけないのであるが、

この「理性」というのが「自我」でもあり、やっかいなのである。

さらに「理性」という「リミッター」がちゃんと働いていれば、

こんな暴走をしなくて済んで良いようにみえるが、

「自我」である「理性」で「リミッター」をかけて抑えている以上、

車と同じく、自分の性能をフルに使えていないわけであるので、

本当の自信も、本当の幸せも見つけることは出来ないのである。

で、その不満や怒りが「自我」の中に起こって溜まり続けると、

ある日、突然、「リミッター」である「理性」が、ぶっ壊れるのである。

その「リミッター」が壊れた原因が、不満や怒りという「理性」であるから、

コントロール不能、制御不能の暴走人間になるのである。

攻撃的な人間は「極悪非道」になり、

受け身的な人間は「死にたい病」になるのである。

これがよく聞く言葉、お釈迦さまの説かれる「人生とは苦である。」である。

「理性」で抑圧しても「苦」であり、「理性」が外れても「苦」である。

と、いうことである。

じゃ、

人間は苦しむために生まれてきたのか!

そんなことないのである。

「人生とは苦である。」は、お釈迦さまの教えのほんの一部分なんである。

この言葉だけがクソ坊主たちによって一人歩きを始めて、過酷な修行をやったり、

自ら進んで苦しいことをやることが美学になってしまったのである。

で、苦しいことをやるから、もっと苦しくなるのである。

そして、「理性」が抑圧されて、「リミッター」を壊す可能性を上げるのである。

そんで、ついに「リミッター」が外れたクソ坊主が、見たことない世界を見て、

「ワタシは神である。」とか「ワタシは仏陀である。」

と、言い出して、苦行を善とし、おかしな思想になっちゃってるのである。

こういう人を、本当にイッちゃってる!とか、頭の中がお花畑!というのである。

こんな人も、こんな人を崇めた人も、その人生列車は地獄行である。

で、お釈迦さまは、何故?生まれてきたか?も、お示しになっておられるのである。

人間は学ぶために生まれてきたのである。

「人生とは学ぶことである。」

何を学ぶのか?は、人それぞれであるが、自分に合った何かの学びを通じて、

お釈迦さまなどの、「正しい教え」を学ぶのである。

「正しい教え」を学べない人生が苦となるのである。

で、これらの「正しい教え」を学び実践していれば、その「理性」も正しくなって、

誰もが自然な形で、徐々に「リミッター」が外れるようになっているのである。

で、この世には、必ず、今の自分に合った「正しい教え」が用意されているのである。

そうやって「リミッター」が外れれば、自分の本当の能力が出て来るのである。

本当の自分が出て来たら、幸せである。

そして、その自分を育てるのである。

なので、ワタシはお弟子さんやブログの読者の「リミッター」を

少しずつ外すお手伝いをしたいのである。

もちろん、そんなワタシは、とっくに「リミッター」が外れている人間である。

でも、「神」でも「仏陀」でもなくて、ただの「人間」である。当たり前である。

ただ、ちょっと、人より変わってるし、おバカなだけである。

なので、「リミッター」が外れても、なお学び続けるのである。

それが「生きる歓び♪」なのである。

是非とも、自分に合った「正しい教え」に出会っておくんなせー。

咲 心太郎

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