「喉が渇いた牛を水場に連れていくことは出来るが
その水を飲むかどうかはその「牛次第」である。」
多少、言葉は違うかも知れないれけど、フルコン空手を創った方の言葉である。
喉が渇いている牛を綱で引っ張って水のあるところまで連れては行けるが水を飲ませることまでは出来ない。
ということである。
指導者は「牛を引っ張る人」で、道場は「水場」にならないといけないわけである。
で、「喉が渇いてる牛」というのはお弟子さんのことである。
お弟子さんたちは、強くなりたいとか、健康でいたい、技を身につけたい・・・
いろんな人がそれぞれのいろんな思い、「喉の渇き」をお持ちになって来ている。
それを満たせる道場、水場でなければならないわけである。
そして水の飲み方を教える。
で、飲むかどうかはお弟子さん次第である。
ってな話である。
それで自分の道場を創っちゃったワタシは
キレイな水の流れる水場☆
にしなくちゃならないのである。
喉が渇いたお弟子さんたちに
汚い水を飲ませるわけにはいかねー。
のである。
水が汚いどころか水がない道場もこの世にはたくさんある・・・けど
ワタシの道場の水には
「心」、「技」、「体」
という栄養素が3拍子、ちゃんとバランス良く揃って入っているのである。
ワタシは
心は「言葉と接し方」で
技と体は「この身」で
示している。
これがワタシの道場の水
なんである。
この水を求めて来て飲むかどうかはお弟子さん次第なんである。
それがうめーかまずいかもお弟子さん次第でなんである。
オェッ~!ってなるかも知れないのである。
ちなみに、お弟子さんだった時代のワタシは「喉が渇いた牛」どころか
カラカラに渇いた「スポンジ」になったのである。素直な心ともいう。
そんで師匠の水がなくなるくらい吸いまくって吸い取ったのである。
でも師匠の水はなくならないのである。永遠に流れる水だったのである。
そしてそんなワタシにも「この水」が流れるようになり
ワタシに流れる水もどんだけ吸い取っていただいてもなくならないのである。
「渇いたスポンジになれ。」
そして
もう渇いたスポンジになれないワタシは
「オアシスになりたい。」
のである。
渇いたスポンジとオアシス・・・
これを本当の師弟関係というのである。
とワタシは実体験で学んだのである。
ワタシは、咲心館は、この水が流れるオアシスを量産するのである。
そう、渇いたスポンジのアナタが、やがてオアシスになっているのである☆
みんながオアシスになったら師匠としてのワタシの役目は終わるのである。
その前に水が枯れちゃっても終わっちゃうのである。
で、ブログなんて書いてる場合ではないのである。
今から仕事をさぼって筋トレである。ワタシは水を枯らしちゃならんのである。
ところでワタシに流れる水は・・・どこから来てるんやろ?・・・水は循環する!?
咲 心太郎
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