「生きた教え」と「死んだ教え」・・・この世がダメになる仕組み。

昨日、ブログを書き終えると、

ちょーど昨日のブログに書いた友人!?から電話があって、

そんで、この友人!?もご商売をなさっているから、商売の話になったのである。

友人!?は独立して4,5年くらいかな、

咲心太郎は潰れそーな会社ではあるが、「社長歴31年」である。

で、これまでのワタシの商売での経験談を少しだけ話すと、

「オマエ、そんな苦労してきたんかー!」

と、ビックリされて、

「オマエ、やっぱ、頭は染めんとそのままでいいわ。」

おいおい、

ブログに「染める宣言」をしちゃったじゃねーかよ!

どーすんだよ。

 

この友人!?は、随分と前からワタシのお店の経営が良くないことを知っていたのであるが、

「オマエ、貯蓄がたくさんあるから、遊びでやってんだろ!」

と、思っていたので、

ワタシのこれまでの経験の一部の話を聞いてビックリしたのである。

「オマエ、なんでそんなスゲーこと知ってんの?」

この友人!?に限らず、

ワタシがどれほどやって凌いできたかを知る人は少ないのである。

3年ほど前に、顧問税理士の担当のお姉さんに

「社長さんで、ここまでやる人を見たことがありません。」

と、感動されて涙ながらに言われたこともあるのである。

どーだ、すげーだろ。

けど、ずっと潰れる寸前のお店なんだから、ぜんぜん凄くないのである。

 

現代社会は、

「結果主義」、「結果が全て」である。

どんなにがんばって、人の何倍も努力したって、

「結果」が出てなければ、誰からも何の評価も受けることもなく、

それどころか「結果」が出てないことへの「ダメ出し」をされるのである。

逆に、毎晩、飲み歩いて遊んでたって、「結果」が出てれば、

世間の人たちは、「凄い人やね。」なんて評価をしたりするのである。

 

ずっと「結果」の出てないワタシは、

「空手ばっかやってるから商売がダメになるんだよ!」

とか、

「親父は凄かったけど、2代目はやっぱダメやな。」

なんて言われ、

逆に「結果」の出てる、ワタシの同級生は、

「博打で大金をかけてやってるほど、スゲーよ。」

とか、

「飲みに行っては大金を使って、スゲーよ。」

と、こんな評価になるのである。

 

「空手」で自分の心を正し続け、

「2代目」としての責任を自覚しながらやってることが、

「結果」が出てないから「ダメなヤツ」と評価され、

「博打」や「酒」に大金を使ってることが、

「結果」が出てると「スゲー人」と評価されるのである。

これは、

この世がダメになる仕組み。

である。

早よ、気づけ。

 

で、こんな社会であるから、

「成功」してる、「結果」が出てる人の話には、耳を傾ける人が多いが、

「失敗」した、「結果」が出てない人の話なんて、知らんぷりである。

でも、「結果」が出ていても、「あぐらをかいてる」ような人の教えは、

「結果」が出るまでの過去にやったことという「死んだ教え」であり、

また、「失敗」して「あきらめた」人の教えも、

やっぱり「死んだ教え」なのである。

が、

「失敗」してる、「結果」が出てないけど、「成功」に向かって、

「あきらめない心」の人の教えは現在進行形であるから

これが、

「生き様」という、本当の「生きた教え」なのである。

 

とは言え、「結果」の出てない人間のその教えは

人に知られることもねーし、

また、知られることになる「成功」という「結果」を出した暁には、

その時点で「死んだ教え」になっちゃうのであるから、

「生きた教え」に出会えることは、ほとんどねーのである。

なので、古の偉大な方々の「書」を読み、それを人生の指針として、

自分の人生を自分で経験しながら学ぶことが大切だと思うのである。

じゃないと、

「成功者」の言うことを聞いてやったって、

この世では、みんな失敗するよ~。

だって、「成功者」たちは、

たくさんの「失敗者」たちがいるから「成功」してんだからさ。

で、この世間の評価の仕方を引っくり返さない限り、

僅かな「成功者」と多くの「失敗者」の世が続くのである。

そして「格差社会」はますます進むのである。

わかるかな、この仕組み。

 

「失敗者」と思える者たちよ、

指をくわえて「成功者」を眺めるのはもう辞めて、

自らが立ち上がり、

ちんけな「失敗者」同志で争うのを辞め、

みんなで力を合わせて生きよーぜ。

 

咲 心太郎

コメント