「今」どんな「因」を創るか?

今日の稽古に借りている施設から連絡が来ないので、

さっき、電話したら「まだ使えますよ。」だって。マジで?何でだろ?

で、「じゃ、お願いしまーす♪」って言っちゃった。

いいのかね、こんなときに空手の稽古なんかやって。

ここ数日は、田舎町の静かな夜がさらに静かになって・・・

みんなでいろんなことを自粛して我慢してるのにね。

それでも稽古をやるというワタシはバカだと思うけれど、

このバカは2月の初めから半ば頃までは、道場稽古の自粛を思案していたのだよ。

まだ、みんなが自粛なんて思いもしないときには自粛を考えていたくせに

みんなが自粛するようになった今でも、まだ自粛をしないという、

ホントに変わりモンだとつくづく思う。

ま、理由があるからなんだけど、誰も理解してくれないだろーね。

と、そこへ、今、携帯に着信が。施設の管理人のおじさんからだ。

あー、やっぱり使えなくなったのかねー。

と思いながら「もしもし」と電話に出てみれば、

「今日の稽古は、密室ですから十分に気を付けてやってくださいね。」

なーんだそれ。今さら、今頃、わざわざ言うてくる?

あ、もしかして、おじさん、ワタシが稽古に来るなんて思わなかったから、

電話を切った後、改めて役所の人間に念のため許可していいのかを再確認したのね。

で、感染には気をつけろって念を押せと言われてかけ直してきたのね。

心配しなくて大丈夫ですよー。

でも、こんなバカのためにホントにありがとう。

それと、今までクソじじいなんて悪口言ってごめんなさい。

人間には、仏教では因縁という因果関係が説かれるように

「原因と結果の法則」があるのである。

何事にも、原因があり、その「因」によって結果、「果」が顕れるというのである。

良いことも悪いことも、この法則によって成り立っているんである。

例えば、突きの稽古を正しくやるという「因」により、

突きが良くなるという「果」になるというわけだ。

が、突きが良くなったからと稽古を辞めると、

また突きも良くなくなってしまうのである。

稽古という「因」で良くなったという「果」が稽古を辞めるという「因」を創り、

その「果」が、良くなくなったとなるのである。

このように、生きている限り、「因」が「果」となり、その「果」が「因」となり…

「因」と「果」は永遠に継続して繰り返されるのである。

また、今日一日で何かしら10個の「因」を創ったとしても、

この10個の「果」が同じ日、同じ時期に出ることはないのである。

ある「因」は1年後に出たり、ある「因」は10年後に出たりと、

創った「因」によって出る「果」はいつになるかはわからないのである。

で、今日、自分にある、自分の全ては、今までの自分が知らない間に創ってきた、

数々の「因」による「果」の集まりなんである。

なので、今日という一日の「果」を過ごしながら考え、良い「因」を創るのである。

今日の「果」に幸せな思いを向ければ、幸せの「因」を創り、

今日の「果」に腹を立てれば、怒りの「因」を創り、

いつの日か、その「因」が熟して「果」と成って顕れるのである。

こんなときにも稽古をやるという、今日のワタシが創る「因」が正しいかどうかは、

いつの日かという未来の「果」によって、イヤでも知らされる日が来るのである。

そして、人類全体が創ってきた「因」によって、コロナ問題という「果」の今、

未来の自分や人類にとって良い「果」となるような、

自分に出来る最善の「因」を自分で考え、今、実行するのである。

コロナの今は、大きな「果」を出すための「因」を創る大チャンスだと思うんである。

ワタシは咲心館や人間社会の良い未来を思い描き、その「因」を創り続けるのである。

生きるとは「因」を創り続けることなんである。

「果」は、あとから勝手に出て来るのである。

その「果」は、新たな「因」を創るために出るだけなんである。

で、いつだって、「今」どんな「因」を創るか?が、肝要である。

用心はしても心まで守りに入んなよー。因果の法則には、心が最重要なんである。

咲 心太郎

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