今日も昨日と同じく昨日のブログの続きでございます。
Part①は↓
Part②は↓
Part③は↓
カナダに着いてから1ヶ月が経ち、
カニの漁が解禁となりました。
いよいよ次の日から、
工場が本格的に始動し、
カナダでの仕事が始まるのです。
カナダでの初指導。
相手は、200人を超える現地のカナダ人。
うまく教えられるか心配だったけれど、
この仕事をやりきれば、
必ず、また一皮向けて成長すると思っていました。
そんな次の日に、
初のカナダでの仕事を控えた前日は、
誰がどこの場所を監視するのか、
どこの場所を教えるのかを決めるために、
フォアマン(リーダー的な人)を含めて、最終ミーティングをしました。
当時の僕は、
カニの加工を日本で機械を使って行っていたので、
最初はカニの加工場所の指導兼、監視を任されました。
そうして、
各々が自分の配置と役割を確認し、
その日は帰宅することになりました。
ちなみに、
初出勤の出勤時間は、
6時
でした。
なので、
5時半に起床して、
身支度を済ませて、
工場へ向かうという計画を自分の中で経てました。
まぁ、僕からしたら、
ここから地獄が始まっていたわけです・・・
次の日。
なんとか持参した目覚まし時計のおかげで、
5時半に起きられた僕は、
眠たい目をこすりながら、
歯を磨き、
顔を洗い、
身支度をして、
キッチンへと向かいました。
すると、
またキッチンの上には、
70歳の上司が作ってくれた朝ごはんが置いてありました。
ありがとうございます🙇
上司に感謝の言葉を述べて、
朝ごはんを食べました。
そうして、
皆が朝ごはんを食べ終わった頃、
工場へ向かうことになりました。
工場に着き、
作業着に着替えて、
髪の毛が落ちないようにヘアゴムを被り、
長靴を履いて、
カニの搬入が行われる場所で、
カニの搬入を待ちました。
その間、
カニを茹でるための窯の温度や、
塩分濃度の調整を行いました。
この工程が特に大事で、
少しでも数値が違ってしまうと、
茹でたカニの味がくどくなったり、
薄くなったりするので、
カニの搬入が行われるまで、
念入りにチェックを行いました。
そうして、
チェックが終わった頃、
漁師が採ってきた、
カニが搬入されました。
カニはベルトコンベアーで外から工場の中へと送られ、
送られてきたカニは、
中でワーカー(働いているカナダ人)さん達が、
目や手で触った時の感覚で選別し、
実入りが良かったり、色が濃かったり、足がしっかりとついているカニは、
姿カニ(加工しないそのままのカニ)に。
スカスカだったり、色が薄かったり、足がついていないカニは、
加工カニとして、
窯へと送っていきました。
そうして、
窯で茹でたカニを再度、
ワーカーさん達が目や手で選別して、
加工をしたり、
箱詰めをしたりして、
製品を作っていきました。
これが、おおまかな加工の流れでした。
こんな感じで、
工場は動き始めたのですが、
なんと、
終わった時間は、
22時!?
でした。
つまり、
6時からカニの搬入が始まり、
加工をしていき、
その日に搬入されたカニを全て捌き切ったのが、
22時だったわけです。
14時間労働だったわけですね・・・
しかも、
ずっと立ちっぱなしで、
カニの入った箱を運んだりもしていたので、
体力も削られまくっていました。
そして、
実は、
この日に入ってきたカニは、
工場で処理できるキャパを思いっきりオーバーした量が搬入されていたので、
捌ききれなかった残りのカニは、
全て外にある冷蔵倉庫へと保管することになりました。
後に、
この判断が、
とんでもないことを引き起こすなど、
誰一人、分かりませんでした。
そうして、
全員満身創痍の状態で、
一日目の工場での仕事が終わりました。
この日から、
5時半に起き、
22時、遅いときだと23まで仕事をして、
日を跨ぐくらいに寝るという生活が、
20日以上休みを与えられることなく続きました。
その間に、
僕は風邪を引いてしまうのですが、
その風邪のせいで、
1ヶ月以上、咳が止まらなくなり、
肺炎のようになってしまいました。
喋ろうとしても、咳が出てうまく喋れないし、
肺は痛いし・・・
最悪でした。
過度な労働と、
初めての長時間に渡る労働で、
精神的にも肉体的にも、
僕の身体は、おかしくなっていました。
ちなみに、
僕と一緒にカナダへ出張にきていた同期?というか友達は、
蕁麻疹が出て、
毎朝、そのかゆみと戦っていました。
それほど、
過酷な状況下で、
僕達は労働をしていたわけです。
そうして、
そんな地獄のような労働環境でも、
なんとか耐えて、
頑張っていた僕達だったのですが、
ここから、
さらなる地獄の階段を下って行く
ことになることを、
僕はまだ知る由もありませんでした。
Part⑤へ続く。
咲 心次郎
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