神ちゃまと共に歩む♪

365日ブログを書いてたときは、少々しんどかったりもしたのであるが、

目標達成を果たしたから3日ほどお休みしたら、また書きたくなってくるという、

人間の脳みそと心というモノはホントに不思議やね。

で、今日も書いてるのであるが、今年は気が向かねー日は書かないのである。

何事も義務的になってしまったらつまんねーのである。

やっぱりお気楽にやる、楽しんでやる・・・

これが何より大事である。

元日の昨日の夜は、毎年恒例の地元の神社に一人で参拝である。

小さな町にしては大きくて自然豊かな立派な神社なのであるが、

有名じゃないから元日の夜でも、大体はワタシ一人で貸切になるのである。

で、昨夜も10時頃に行くと、やっぱりだぁ~れもいないのである。

まぁ、それが狙いで夜遅くに行くのである。

だって、一人稽古をやりに行くんだもん。

で、本殿の参拝はサッと済ませ、本殿の前で型稽古や突き蹴りをやったのである。

こーして毎年、年の初めに神ちゃまにワタシの空手を見てもらうのである。

で、今度は、神社内にある大きな石を祀った社へと向かい、

スワイショウ、立禅をやって氣を練るのである。

いつからか、この石からすげーパワーを感じるよーになったからである。

ま、根拠はねーけど、おそらく、この神社の根源はこの石なんだと思うのである。

で、最近、「炭光」の効果で氣の感度が格段に変わったワタシは、

この石の前で立禅を始めると、

「なんだこれ~。やっぱ、すげーな。」

もう、手の平がジリジリとビンビンに反応するのである。

が、それも束の間、あまりの寒さに手が冷たさの痺れに変わっちゃったのである。

でも、そこは空手家、じっと耐え、じっと突っ立ったのである。

すると、頭の天辺に光を感じたから、見上げると、

木々の隙間から月の光がワタシを照らしてくれていたのである。

いろんな神社で太陽に照らされたのは何度かあったけれど、お月様は初めてである。

そんな昨日は、お弟子さんたちから新年の挨拶のラインをいただいたのであるが、

その中の一人が、龍神を祀る神社の写真を送って来て、

で、もう一人が、走らせた車の真正面の空に浮かぶ、

大きな龍神雲の写真を送って来たのである。

「お~、龍だねー、大好き♡」

5年ほど前に、師匠さんに

「アナタの奥に龍がみえる、アナタは龍になりましたね。」

と、突然言われ、

「龍神と言えば・・・奈良の玉置神社へ行きなさい。」

師に逆らわないワタシは、わけもわからず玉置神社へとご参拝に行ったのである。

ここも本殿ではなく、「玉石社」という石を祀ったところでビンビンきたのである。

一昨年は、仕事で、とある方々から「もーやってらんねー。」と思える扱いを受けて、

心のモヤモヤが収まらず、師匠さんにある歌手の歌の動画を送り、

その歌だけで心情を吐露したら、それを察知したのか、

「すぐに白山比咩神社へ行きなさい。」

と、何故か言われ、その1ヶ月ほど前にも行ったにもかかわらず、またご参拝である。

師に言われる前からこの神社には何度も参拝に行ってたのであるが、

ここも本殿ではなく「白山神社奥宮」という石を祀ってあるところがビンビンである。

まぁ、当時はわけがわからんと、ただ師の言うことに従っただけなのであるが、

今では自分なりにわけがわかるのである。

で、咲心館の御祭神は、

ククリヒメちゃま

サムハラ龍王

なのである。

でも、昨日、参拝した地元の神社が祀る神ちゃまは、この2神ではないのである。

けれど、この2神も、その神社でのワタシの一人稽古を見に来てくれるのである。

で、今年も咲心館と咲心太郎は、神ちゃまと共に歩む♪のである。

神というのは、ただ力と愛を与えるのみの存在であって、

罰を与えるなんてことはあり得ないのである。

神の罰や天罰なんてモンは人間が作った、傲慢である。

また神は、あらゆる願望を叶えることも出来ねーのである。

その神が与えてくれる力と愛をどー使うか?

それが人生である。

そのあなたの人生が、神の力と愛を表現しているのである。

この話、バカになれば、わかるのである。

神はそこらじゅうに存在しているのである。

で、その信じた神に死ぬまで守られていることがわかるのである。

咲 心太郎

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