いよいよ20日には奏ちゃんが進学で、24日には息子が就職で、
遠く離れた県外へと飛び立つのである。
息子はもちろんのこと、14年間もワタシの空手に来てた奏ちゃんも、
我が子同然に愛して来たから、めちゃくちゃ淋しいのであるが、
2人とも「成長という名の旅立ち」であるから
淋しさを押し殺し、無理やり喜んでやるのである。
で、後は、2人の今後の活躍と幸せを遠くから祈るだけである。
しかし、ワタシの心の中を占める割合が大きかった2人がいっぺんにいなくなると、
ぽっかりと穴が開くというか、その分の心のスペースが出来るというか・・・
なんかゆとりが出来るようなそんな気がするのである。
で、このスペースを埋めてくれる人、
もしくは出来事が来ることを楽しみにしながら期待して過ごすのである。
これって、淋しさ紛らわしの考え方かね・・・。
まぁ、たくさんのお客さん相手の商売を30年以上やって来て、51歳にもなれば、
これまでに数え切れないくらいの別れを経験してきたのである。
で、そのほとんどが辛い別れであったし、
今でも思い出すと辛い気持ちになる別れも2度ほどあったのである。
そんな中、7,8年前だったか、たった一度だけ、素晴らしい別れがあったのである。
ワタシのお店の何十年来の常連さんで、仕事もバリバリ出来て、
病気知らずの元気な60代の方がいたのであるが、
「2,3週間ほど来てないなぁ。」
と、思ったある日、奥さんの助手席でゲッソリと痩せ細った姿で来たのである。
「どーしたんですかー?」
ビックリして聞くと、
「ガンになって入院してる。」
かなり末期のガンだったようであるが、
気力の強い人であったし、良い治療にも巡り合えたようで、
その後、奇跡的に回復したのである。
それからすぐに仕事にも復帰して、
給油に来る度にお店でいろんな話をワタシにしてくれたのである。
随分前の記事に書いたのであるが、
「自分というのは3人いる。」
と、教えてくれたのはこの方である。
そんな日々を3年くらい過ごしてた、ある日、
「脳に転移した、今度はダメや。」
と、話しに来たのである。
「いや、前回も良くなったんだから、今回も大丈夫だよ。」
と、励ましたのであるが、
その後は、来る度に、弱っていく姿になっていったのである。
そんな数か月後、やつれきって気力もない姿でお店に来て、
「もうダメや。今までたくさん話せて、ホントに楽しかったよ。」
なんて、言いながら、ボロボロと涙を流されたのである。
死を間近に感じ、ワタシに別れの挨拶に来たのである。
それで、ワタシも泣きそーになったが、
「まだ生きてんだから、今はまだ過去形で話すのは辞めてくださいよ。」
「死んだ時に、祭壇の写真の前で、ボクが過去形で語りかけますから。」
そして、互いに「ありがとう」を繰り返しながら、
ガッチリと握手をしながら、しばらく泣き合ったのである。
それからまたいつものように楽しく話をして、
「じゃあ、また来るな。」
笑顔でそう言って帰られた1週間後・・・
ワタシは祭壇の写真に向かって過去形で語りかけたのである。
そこではもう、ワタシに涙はなく、笑顔だったのである。
人は「出会いの数だけ別れがある」と、よく聞いてきたが、
まさにその通りで、
キライな人なら、その別れはなんてことないかも知れないけれど、
好きな人との別れは辛くて悲しいモンである。
そんなことを心のどこかで思っていた咲心太郎は、
この「いつか訪れる別れ」を知らない内に怖れていたよーで、
好きな人にほど、腹を立てたり、イヤな態度を取っていた・・・
と、この「素晴らしい別れ」を経験して気づかされたのである。
で、みんなと「笑顔で別れたい。」と、思うようになったのである。
しかし、ダメ人間の咲心太郎は、そんなこともすぐ忘れ・・・
その数年後、人生一番の「最悪の別れ」も経験することになって、
半年くらいの間、毎夜、一人で泣き暮れる日々を過ごしたのである。
で、もう、悲しみの涙が底をついて出なくなっちゃった・・・
そんで、やっぱり、みんなと「笑顔で別れたい。」
これしか本当の幸せはねーと知ったのである。
なので、奏ちゃんや息子とのお別れでは泣かねーのである。
2人とは仲良しなんだから、笑顔でお別れするのである。
もしも、涙が出たら・・・それは・・・嬉し涙である。
あらゆるすべての別れは、互いの心を育てる・・・
「成長という名の旅立ち」
奏ちゃんも息子もワタシも・・・
このお別れでまた、その心は成長するはずである。
めでたし、めでたし。
お別れの日は飲むゾ。
それって淋しいだけやろ。
ちゃうわい、祝い酒や。
咲 心太郎
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