先日から、「丹田」、「合気」と来たら・・・今日は「氣」である。
昔からよくテレビなんかで「氣」を操る人なんかを見たのであるが、
「ホンマかいな。」
だったのであるが、「氣」は存在しているのである。
今のワタシにとって、「氣」は信じる信じないというレベルではなくて、
現実世界に存在する事実なのである。
でも、独学だし、初心者レベルだろーからあまりエラそーなことは言えないのである。
にもかかわらず、エラそーに書くのがワタシなのである。
何年か前にも、どこやらのお年を召した武道家が「氣」を操る達人ということで、
テレビで取り上げられ、多数のお弟子さんを触れずに吹っ飛ばしたりしてたのである。
それを見た総合格闘家がこの武道家に挑戦することになり、闘ったのである。
結果は秒殺!、ただのおじいちゃんイジメに終わったのである。
そんで、「弟子たちのインチキだ」、「じじぃの氣なんてウソだ」・・・
と批判の雨あられを喰らうことになったのであるが、
このおじいちゃん、インチキでもウソでもないのである。
あの武道家!?は「氣」でお弟子さんたちを吹っ飛ばしていたし、
お弟子さんたちも演技をして吹っ飛んでいたのではないのである。
その「氣」というモノは、通じる、効く人と、通じない、効かない人がいるのである。
「氣」に敏感な人もいれば、鈍感な人もいるのである。人間いろいろ♪である。
また、「氣」を使える人にも、「氣」の量が多い人もいるし少ない人もいるのである。
で、この勝った格闘家さん、以前に合気道の塩田剛三先生にも挑んだのだそーだが、
この塩田剛三先生には、まったく通用しなかったそーである。
やられたおじいちゃんはただの気功家で、自分を武道家だと勘違いしたのだろーね。
一方の塩田剛三先生は、やっぱりホンモノの武道家☆だったということである。
ワタシの「氣」のパワーは、まだ、このおじいちゃんレベル以下で、
感度のイイ数人にしか「氣」だけの技で崩したり吹っ飛ばしたり出来ないのである。
なので、まだまだ体を使う技術が必要なのである。
で、「氣」しか使えなかった、このおじいちゃんは「氣」が通じない相手にとっては、
ただのおじいちゃんでしかなく、闘ったらタコ殴りに遭うだけなんである。
けれど、ワタシは「氣」が通じなくても、そう簡単にはやられねーのである。
それは、ワタシには「技」があるからである。
でも、肉体はこれからどんどん衰えていくのだから、
この「氣」に目を向けないと、武道家としての幸せな老後はねーのである。
老後の肉体の技だけでは、若いモンには敵わないのである。
で、肉体の技に「氣」を通したのが塩田剛三先生などの達人なわけである。
みっちり肉体の技を体に練り込み、それに「氣」を通すのである。
そのためには「氣」の存在を信じ学び、「氣」の通り道である、
「氣道」を育て、「氣」をより多く流れるようにするのである。
「正中線を保ち、体と心を緩ませ、臍下丹田から動く。」
咲心館の空手の真髄はこれである。
これで基本や型稽古を繰り返すことにより、「氣道」が育つのである。
力んでやると、筋トレになってしまって「氣道」は閉じちゃうのである。
「氣道」が閉じれば、筋肉だけが頼りになって、若いモンにはやられちゃうのである。
信じようが信じまいが、自覚があろーがなかろーが、
意識を向け合った人間には「氣」の交流も起こるのである。
その自分に流れる「氣」を大きくするのである。
そして肉体や筋力で敵わない分、またはそれ以上を「氣」でカバーするのである。
なので、「氣」に目を向けるのである。
目を向けないから、在るのに信じられないのである。
「在ったら信じる。」という人間には、存在しないと思う人生で終わるだけである。
でも、在ると本気で思えば、無いモノでも神は創ってくれるのである。
しかし、「氣」は、もう神が創って在るのである。
その「氣」のパワーは、筋力を凌ぐのである。
また、「氣」は健康にもとても良いから、
「氣」の流れを良くしたい人は、「スワイショウ」、「ぷるぷる気功」、「立禅」を
毎日、数分ずつやるといいのである。
ただ、筋トレのようにすぐに効果を実感することが出来ないので、
根気よく、飽きることなく続けるしかねーのである。
そんで、知らないうちに「氣道」は育つのである。
で、武の道を歩む人は、基本や型稽古も継続あるのみである。
「氣」を技に通さない達人はいないのである。
武道家は、みんな達人を目指して歩み続けるのが使命なのである。
武道を趣味とかストレス解消程度でやるなんて、もったいないのである。
「氣」は、人智や常識を超えた世界も教えてくれるのである。
そしていつか、貴方のビックリ箱が開くのである。
あらいやん♪ってなるのである。
なんだそれ。
「氣」を知ろう♪
咲 心太郎
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