「水のようになれ、友よ。」
20年前に知った、大、大、大好きなブルース・リーの言葉☆である。
(水はコップに入れればコップの形になるし、花瓶に入れたら花瓶の形になる。
ぽたぽた落ちる一滴の水でさえも、年月を経れば石さえも砕く・・・。)
ってな内容だったと思うのである。多少は違うだろーけど、なんせ20年前だから。
この言葉を知った30歳のときには、どういうことなのか?まったくわからなくて、
ただ、なんかスゲー教えのように感じるだけで・・・
「考えるな、感じろ。」
と、ブルース・リーの一番有名な言葉通りに何かを感じるけど意味がわからないから、
その教えに逆らって感じるのを辞めて考えながら生きてきたワタシなんである。
そんで、長い間、「水のようになれ。」を一番の課題に稽古精進してきたのである。
そんなワタシのぽたぽた落ちる一滴の水のような稽古を重ねる日々の年月が
まったく意味がわからなかった、「水のようになれ。」という石を砕いたのである。
ブルース・リーはアクション俳優ではなくて、ホンモノの武術家だったのである。
彼の映画はアクション映画ではなくて、武術家としての思想を顕しているのである。
なので、彼の映画は「考えるな、感じろ。」で観ると良いのである。
で、やっぱり頭でわからなくても感じれば、それでイイんである。
ブルース・リーの言うことを心で聞けば、間違いないんである。
この言葉を知った当時のワタシは、フルコン空手にどっぷりとハマった頃で、身体をバンバン鍛えては、闘う心、勝つ心をどんどん育て、身体も心もガッチガチにしまくっていたんである。身体に鎧を!である。そんで空手でも人生でも戦いまくりである。勝てばそんな心が増長し、負ければその悔しさから勝つまでさらにその心を強く大きくしていったのである。しかし、ホンモノの教えを感じて心で知った者は、その意味を心で思い知らされるような人生に成るんである。この教えの逆の生き方をしていたワタシには、当然、逆境という試練の連続である。空手以外の世界では、やられ放題の負けっぱなしの日々の連続である。ぽたぽた落ちる一滴の水のような空手だけが救いの日々である。そうして空手というぽたぽた落ちる一滴の水がこの試練の日々という石を砕いたのである。「完全敗北」というものをワタシの心に認めさせたのである。ワタシはもう負けたのである。もう誰にも勝つことはないのである。そして、もう負けてるワタシは、負けることもないのである。
「水のようになれ。」とは心のことなんである。
ワタシのこの話も心の世界のことなんである。
だから、心が「完全敗北」をしても、
まだこうしてブログを書いてるワタシがいるんである。
そんなワタシが「完全敗北」という「水のような心」になったならば、
相手はその攻撃を、ワタシに当てることは出来ない、
もしくは当たっても、ワタシに効かすことは出来ないのである。
水はどんな形にでも成れるんである。
水のように成ったワタシは、アナタの形に成れるということである。
そう成ったワタシに攻撃を喰らわすというのは、
アナタがアナタ自身を攻めることに成るのである。
自分が出したその攻撃は自分に返るのである。
また、よっぽどイカれてない限り、自分で自分を殺める人はいないのである。
だからワタシは負けないということである。
ま、今後は、よっぽどのことが無い限り、「完全敗北」の心には成らんけど。
と、今日もわけわからん話だろうけど・・・
武の道を歩む人は・・・
「考えるな、感じろ。」
である。
武の道の初歩は護身である。相手を倒すことよりもやられないことである。そのぽたぽた落ちる一滴の水のような初歩の継続が、いつかアナタの究極にたどり着くのである。そして、その究極は、さらなる究極へと続くのである。永遠に・・・である。
いや~武の道って、本当にイイですね~。では、また明日。
咲 心太郎
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