拝んで生きる♪

お盆である。お盆と言えばお墓参りである。

親父や兄がこの世を去っているのに・・・

ここ2,3年くらいか・・・お墓参りに行ってないワタシなんである。

この不届き者が!

いや、

この無礼者が!

やっぱ、

この無法者が!

ま、どれでもいいけど、ワタシはそんな人間なんである。

だって、

お墓には誰もいないもん。

「千の風になって」という歌でも、そー言うてたし。

お墓は、ただの石なんである。

なのに、ワタシの母親なんかは、どーやらお盆になると張り切るよーである。

それで、気が落ち着くのなら、それも良しである。

でも「死んだ人はもーいない。」のである。ワタシの世界だけかも知れないけれど。

ま、元々、お墓というのは、お釈迦さまが説いた教えの中にある、

「ストゥパ」という塔の話から時代を経て出来たモノのよーであるが、

今では、そんなことも知らねー、石屋と坊主たちの金儲けである。

こんなこと書いてもいいのだろーか。

書け書け。

はいよー。

お盆だ、彼岸だ、初詣でだ、命日だ・・・と、

何かと記念日を設けてお墓やお寺や神社なんかに行ってお参りをするのであるが、

神や仏は毎日拝むモンなんである。

特別な日に特別な場所で、拝むモンではないのである。

神社は、そこに御座します神々が違うので、場所も大事ではあるけれど、

神も仏も、その名を真心で拝めば、いつでもどこでも来てくれるのである。

オマエ、あたま、大丈夫?

神も仏も、死んだ親父もあの人も・・・

みんな自分の中にしかいないのである。

「自分の心の中にみんな御座します。」

それを忘れないように、

墓参りだ、お彼岸だ、初詣でだ、命日だ・・・と、

忘れてしまうおバカちゃんのために設けたのである。

なのに設けた側のヤツらもおバカちゃんになってしまって金儲けに必死である。

で、仏教は、拝む、参るモノではなくて、学ぶモノだということも消えそーである。

なので、死者を想うだけの仏教なら、家の仏壇だけを毎日拝めばいいのである。

で、日本人が本当に拝む、参るのは神、神社なのである。

でも、毎日、神社に行くことは出来ねーから、

家に神棚を祀って、朝晩、毎日拝むのである。

そんで、本当の禊ぎになるのである。

拝んで生きるのが禊ぎなんである。

禊ぎとは、「心のお洗濯」なんである。

お洗濯は、毎日した方がイイ♪に決まってるのである。

そんで心がキレイになってくると、

神、仏、死んだ親父やあの人も・・・

みんな自分の中にいるのがわかってくるのである。

これを、脳内お花畑というのである。

どう?少し、バカになってみないかね。

やだよ。

だよな。

お利口さんは、ちゃんとお墓を参ろうね♪

咲 心太郎

コメント