名刀「正宗」と、妖刀「村正」。
刀工の正宗と村正という2人がそれぞれが作った刀である。
この2人の逸話である。
正宗のもとで刀剣作りに励む村正は、刀の切れ味に対する強い執着を持っていた。「どんな刀よりも切れる刀剣を作りたい。」そんな気持ちを込めて日々修行していたという。だが師である正宗は村正を呼ぶと、互いの鍛えた刀を川に突き立て刃先を上流に向けた。そこに一枚の木の葉が流れてきた・・・。正宗は水流を分けるのみで木の葉は正宗を避けて下流へと流れて行った。だが村正の場合は正宗のようにはならなかった。なんと流れてきた木の葉は村正に吸い寄せられると真っ二つになってしまったのである。これを見た正宗は「斬れるだけでは真の名刀とは言えない。必要以上に斬れ味にこだわると、その心は邪気となって刀に宿り、斬らなくてもいいものまで斬ってしまうのだ。」と諭した。だが村正は「斬れることこそ刀の真髄、自分はそれを追求する。」と言い、正宗のもとを去って行ったという。
どう?深くてエエ話やろ。
名刀と妖刀と呼ばれるのもわかるのである。
ワタシも40歳までは、とにかく強い突きや蹴りを追求して、
コンクリートを叩きまくったりして「拳ダコをデカく育てたりしていたけれど、
空手の神ちゃまによって、正宗の教えを身に染みて知らされたのである。
この逸話にはもう一つあって、
正宗の刀に流れてきた木の葉がピタッと止まり続け、
正宗の気合一閃「ハッ!」と掛け声の瞬間、木の葉が真っ二つに切れて、
「人の意によって、斬れる、斬れない刀でなければならない。」
と、村正に諭した。
っていう話もあるのである。
まぁ、実際は、生きた時代が違う2人であるから、誰かが作った作り話である。
でも、武の真髄をつくイイ話である。
で、ワタシの「拳ダコ「は、ほぼ消えてなくなったのである。
なのに、ワタシの突きの威力は、
コンクリートやサンドバックを打ちまくっていた頃よりも、
遥かに大きくなっているのである。
その突きには、ワタシの意念が通るのである。
痛くしようと思えば相手が痛がる突きとなり、
吹っ飛ばそうと思えば相手が吹っ飛ぶ突きとなり、
崩そうと思えば相手が崩れる突きとなり・・・
そんな突きは「名拳」ではなくて、まるで「妖拳」のようである。
しかし、正宗の教えを理解したワタシの突きは「名拳」なのである。
ワタシの突きに「邪心」や「邪念」は一切無いのである。
自分の「邪心」や「邪念」を知り、それを祓うように稽古をするのである。
そーすれば、正宗の教えがわかるのである。
わかれば、それで「名拳」である。
稽古や修行というものは、「禊ぎ「とも言えるのである。
「禊ぎ「の祓いが進むほど、本来の力が輝き出すのである。
咲 心太郎
コメント