「現実的な現象」と「仮想的な現象」・・・「心象」で人生を創る。

人間の人生は、自分の目の前にある現象の中から心が何かをキャッチして、

その印象、いわゆる「心象」がその人の人生ということである。

一つの同じ食べ物でも、ある人は「美味しい」、またある人は「不味い」とか、

映画を観ても「面白い」と思う人もいれば、「くだらん」と思う人も・・・

また同じ場所にいても、ある人はテレビ、ある人は新聞と、違うモノを見てたりと

このように人それぞれの心は違うように受け取るから、

それぞれの違った人生になるわけである。

人間は一つの大きな心を小さく分離して与えらて、分散しているのである。

同じ心ではあるが、別々の心でもあるのである。

ま、これは置いといて・・・

 

で、その「心象」を創るどんな「現象」を見て過ごすか?によって、

その人生は創られていくわけである。

この「現象」には「現実的な現象」と「仮想的な現象」の2つがあるのである。

今、ワタシがパソコンに向かってブログを書いてるのは「現実的な現象」で、

今、ワタシのブログを読んでくれているあなたは「仮想的な現象」を見ているのである。

で、ワタシにはブログを書くという、「現実的な現象」に心象が働きながら書いていて、

あなたにはワタシのブログを読むという、「仮想的な現象」に心象が働いて読んでいるのである。

わかるかな、コレ。

例えば、山に実際に登って山頂から見る景色は「現実的な現象」で、

その同じ山の山頂の景色を映像で見れば「仮想的な現象」ということである。

で、その同じ景色の美しさに感動したとしても、

「現実的な現象」と「仮想的な現象」では、その心象が違って、その感動も違うのである。

 

現代では、テレビだけでなくパソコンやスマホの普及もあって、

テレビや動画など「仮想的な現象」を見る機会が多くなったのである。

お年寄りはテレビにくぎ付けで若者はスマホにくぎ付けである。

お年寄りは「コロナのニュース」や「事件のニュース」、

若者は「他人の動画」や「ゲーム」などに夢中になって、心象を創っているのである。

まぁ、それも楽しい人生であるからいいのであるが、

画面の中の「仮想的な現象」というモノは他人が創ったモノ、もしくは他人の事であるから

他人の人生に心象を創ってばかりいるということは、

自分の人生をちゃんと見ていない。

ということになるのである。

自分の人生をちゃんと見ないで、人生が上手くいくとは思えないのである。

生きている間は常に「心象」が働いて、その「心象」が人生を創っていくのであるから、

「仮想的な現象」を見て「心象」を多く働かせて人生を創るよりは

「現実的な現象」を見て「心象」を多く働かせて人生を創った方が良いに決まっているのである。

自分の人生は、目の前に在る現実が全て!

なのであるから。

 

で、「現実的な現象」を見て「心象」を働かせ、そこから自分の人生を想像し、

その「現実的な現象」からだけでは得られないモノは「仮想的な現象」から補足するのである。

本や教材的な動画など・・・

それら「仮想的な現象」から受けた「心象」を「現実的な現象」に活かすのである。

で、もちろん、ワタシのブログや動画は、

「現実的な現象」に活かせるようにして作ってあるのである。

ま、それも受け取る側の「心象」次第ではあるが・・・。

その前に、ワタシの作る内容が良くナイヨウってか。

うぅぅ。

 

テレビなどの世界で活躍する人を応援するのも良いけれど、

もっと身近で大切な人・・・家族や知人や友人、そして自分に応援の心を向けるのである。

心はエネルギーであり、そのエネルギーが働いて人生を創るのであるから

自分に与えられたエネルギーをいつどこで誰にどんな風に使うのか?

よくよく考えたいモンである。

だってさ、

与えられたエネルギーには限りがある。

だもん。

で、出来るだけ無駄使いせず、

身近な者同志が互いにエネルギーを向け合えば、

やがて一つに解け合って大きなうねりとなるのである。

その大きなうねりが創る「現実的な現象」をこの人生で味わたいモンである♪

 

咲 心太郎

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